LOGIN決定的なケンカになったのは、ほんの些細な言葉からだった。
「どうして、また男と当直なんだよ」
亮の声は強張り、楓を責めるように響いた。
「“また”も何も、病院なんだから当然でしょ。女性医師のほうが少ないんだから」
「でも俺は嫌なんだよ」
「私だって嫌よ。いつも疑われるの」
その瞬間、部屋の空気が一気に張りつめた。
楓がこんなに怒るのは珍しい。亮もそれをわかっているのか、言葉を飲み込んだまま固まった。
沈黙が長く落ちたあと、亮がぽつりと言った。「……楓が誰かに取られる気がする」
「取られないわよ。そんな簡単に誰かに心を向けたりしない」
「それでも……怖いんだよ」
弱さを見せられると、楓は強くは言えなかった。
亮の嫉妬深さに辟易していた部分は確かにあるが、それでも――亮を嫌いになることなんて、想像すらできなかった。だからこそ、楓はある決断を下す。
外科を辞める。
大学病院を辞めて、知り合いの総合病院の内科に移る――その選択。辞表を提出した日、外科医局の空気がぴんと張りつめた。
「渡辺、本当に辞めるのか? もったいない!」
「君の腕なら、将来は教授も狙えるんだぞ!」 「恋愛なんて、あとからでもできるだろう!!」散々引き止められた。
指導医には何度も呼び出され、「一度落ち着いて考え直せ」と言われた。だが、楓は昔から決めたことは曲げない猪突猛進型だ。
一度“内科に移る”と決めた以上、迷いはなかった。(後悔なんて、するわけない。亮と一緒にいられるなら、それでいい)
そう思い込んでいた。
あるいは、そう思い込もうとしていた。内科へ移ってから、亮は確かに安心したようだった。
「これで当直も無いよな? 呼び出しもほとんどないんだろ?」
「うん。外科みたいに緊急オペもないし」
「よかった……ほんと、よかったよ」
亮の安堵した笑顔を見て、楓は胸が温かくなるのを感じた。
また以前のような穏やかな二人に戻れた気がした。楓が内科に移ってからは、平日の夜も外食が増えた。
亮は行きつけの店や接待でよく使う“雰囲気のいい店”へ楓を連れて行ってくれた。「ここ、ワインが最高なんだよ」
「こっちはちょっとおもしろい店。先輩と来てさ」そしてある夜。
「行ったことないだろう?」と自慢げに亮が案内したのは、ホストクラブだった。
「……なんで、亮がホスト? ここに?」
「女性社長の接待でさ。俺と先輩で連れてきたんだよ。面白いだろ?」
亮は少し得意げに笑った。
その瞬間、楓の中で何かがかすかに軋む音を立てた。
(私が当直の夜……亮は、こういうところで“遊んで”いたの?)
亮の笑顔は眩しいほど自然で、嘘なんて一つもないように見える。
でも、心の奥がひやりと冷えた。気づかないふりをした。
この幸せが壊れるのが、怖かったから。「“愛しているから辞めた” この決断、後悔しないと思えますか?」
内科へ移ったことで、楓の日常は驚くほど変わった。 呼び出しは減り、急変の緊張で胃が縮むような夜もなくなった。 勤務の重さそのものが外科とはまるで違う。 心身の疲労は軽くなり、体がふっと軽くなったかのようだった。 けれど、その軽さは同時に“何かを置いてきた証”でもあった。 ──外科医としての夢。 白衣の袖を通したときの、あの緊張感。 手術室の無機質な光が肌に落ちる瞬間の高揚。 スコープ越しに見える命の輝き。 それらの感覚が日々薄れていくのを、楓ははっきりと感じていた。 それでも笑えた。 亮といる限り、未来を考えるより“今”の幸福を抱きしめていたかった。 ホストクラブを出た夜。 街に広がるネオンの光が、夜風に揺れて滲んでいる。 酔いの回った亮はご機嫌で、楓の肩に腕を回して歩いた。「な? 面白かっただろ?」「……ええ、まぁ。初めてだったけど」「また行こうぜ。今度はもっと派手な店知ってるから!」 亮の笑顔は無邪気で、少し子どもっぽいほどだった。 その表情を見ていると、楓も笑わずにはいられない。 一緒にいるときの彼は、本当に楽しそうで、愛おしかった。 しかし、心の奥では別の声が囁く。(私の当直の夜、亮は……こんな場所に) 喉の奥がひりつくような、かすかな痛み。 黙り込んだ楓に気づいた亮が顔を覗き込んだ。「どうした? 疲れた?」「ううん。ちょっと考え事してただけ」「また変な心配してんだろ? 俺は楓だけだから」 そう言って、楓の頭を優しく撫でる。 その手つきは温かくて、優しくて、嘘を感じさせなかった。 信じたい。 信じていたい。 だから楓は、その言葉の裏側を深く探らなかった。 翌週も、さらにその翌週も、亮は「接待で」「面白い店がある」と言い、夜の街へ楓を連れ出した。 楓が知らなかった世界を、亮は次々と見せてくる。 ワインバー、クラブ、隠れ家レストラン。 そして、夜の街の入り組んだ路地裏にある小さなラウンジ。(亮……夜の店、やけに詳しい) 胸にひっかかる違和感が、日に日に重さを増す。 亮が仕事だと言うなら、それを疑う理由はないはず。 それでも―― 楓が当直で働いていた夜、亮がどこで誰と何をしていたのか。 ふと考えてしまう自分がいた。 責めたくない。 問
決定的なケンカになったのは、ほんの些細な言葉からだった。「どうして、また男と当直なんだよ」 亮の声は強張り、楓を責めるように響いた。「“また”も何も、病院なんだから当然でしょ。女性医師のほうが少ないんだから」「でも俺は嫌なんだよ」「私だって嫌よ。いつも疑われるの」 その瞬間、部屋の空気が一気に張りつめた。 楓がこんなに怒るのは珍しい。亮もそれをわかっているのか、言葉を飲み込んだまま固まった。 沈黙が長く落ちたあと、亮がぽつりと言った。「……楓が誰かに取られる気がする」「取られないわよ。そんな簡単に誰かに心を向けたりしない」「それでも……怖いんだよ」 弱さを見せられると、楓は強くは言えなかった。 亮の嫉妬深さに辟易していた部分は確かにあるが、それでも――亮を嫌いになることなんて、想像すらできなかった。 だからこそ、楓はある決断を下す。 外科を辞める。 大学病院を辞めて、知り合いの総合病院の内科に移る――その選択。 辞表を提出した日、外科医局の空気がぴんと張りつめた。「渡辺、本当に辞めるのか? もったいない!」 「君の腕なら、将来は教授も狙えるんだぞ!」 「恋愛なんて、あとからでもできるだろう!!」 散々引き止められた。 指導医には何度も呼び出され、「一度落ち着いて考え直せ」と言われた。 だが、楓は昔から決めたことは曲げない猪突猛進型だ。 一度“内科に移る”と決めた以上、迷いはなかった。(後悔なんて、するわけない。亮と一緒にいられるなら、それでいい) そう思い込んでいた。 あるいは、そう思い込もうとしていた。 内科へ移ってから、亮は確かに安心したようだった。「これで当直も無いよな? 呼び出しもほとんどないんだろ?」「うん。外科みたいに緊急オペもないし」「よかった……ほんと、よかったよ」 亮の安堵した笑顔を見て、楓は胸が温かくなるのを感じた。 また以前のような穏やかな二人に戻れた気がした。 楓が内科に移ってからは、平日の夜も外食が増えた。 亮は行きつけの店や接待でよく使う“雰囲気のいい店”へ楓を連れて行ってくれた。「ここ、ワインが最高なんだよ」 「こっちはちょっとおもしろい店。先輩と来てさ」 そしてある夜。「行ったことないだろう?」と自慢げに亮が案内したのは
懇親会へ向かう支度をしていた楓の背中に、亮の冷えた声が落ちた。「行かないでほしいんだよ。男ばっかなんだろ?」 振り向くと、亮は腕を組み、テレビもつけずにソファに座っていた。 ただ楓だけを見ている。その視線には焦りにも似た強さがにじんでいた。「仕事よ。行かないほうが逆に変だから」 できるだけ穏やかな声を心がけた。 けれど亮は納得しない。「俺が迎えに行くから。長居はしないで」 そこに隠しきれない苛立ちが混じり、空気は重くなる。 言葉の端に絡む刺のようなものが、楓の胸をきゅっと締めつけた。(こんなことで揉めたくない……) ため息をぐっと飲み込む。 彼が自分を思っていることは痛いほど伝わる。 ただ――その思いが、過度に重くのしかかることもある。 亮の“見守り”は次第に“監視”へと変わっていった。 勤務表を何気なく覗き込み、誰と当直かを確認し、ペアの医師が男性だと知るとその日は必ず病院に現れた。 エントランスの片隅でスマートフォンをいじりながら、 時折、医局のほうをちらりと見る。 その視線に気づくたび、楓の心のどこかがひやりとした。 そしてついに――仕事場にも影響が出始める。 「渡辺。恋愛もほどほどにしろよ」 ある日の夕方。 外科医局の隅で、指導教授が低い声で楓を呼び止めた。 蛍光灯の白い光が影を濃くし、空気が一気に冷える。 教授は腕を組み、厳しい眼差しで楓を見つめた。「お前はまだスタートを切ったところなんだぞ。医者か結婚か、どちらを選んでもお前の人生だが……これまでの苦労を思い返せ」「……はい」 声が震え、楓はゆっくりとうつむいた。 その一言一言が胸に重く沈み込んでいく。「俺はお前の外科医としての腕を見込んでいるからこう言うんだ。 外科医になる道を諦めるな」 静かながら力のある言葉だった。 怒りでも責めでもない――本気で楓を思っているからこその叱咤。 その優しさが、逆に胸を刺す。 亮との日々は温かかった。 当直明けのコーヒーの香り、休日の小さな料理の失敗、 ソファで肩を並べて見た映画、ふいに差し込んでくる手の温度―― その一つひとつが、楓にとって救いだった。 だけど、気づかないふりをしていた。 その温かさに溺れかけていたことに。(私
交際が始まってからの時間は、不思議なほど自然に、楓の生活へ入り込んできた。 当直明け、自宅のベッドでぐったりと寝ていると、インターホンが鳴る。「楓、開けて。サンドイッチ買ってきた」 眠気の中、玄関の扉を開けると、亮が紙袋を片手に立っている。 いつもより少し早起きしたという顔で。「当直明けは、これくらい軽い方がいいだろ?」 差し出されたサンドイッチには、楓の好きな具材ばかりが詰まっている。そのまま少しだけベッドで抱き合ってから、亮は自分の仕事に出かけていく。 優しさが過剰に詰め込まれた、小さな幸せの塊だった。 休日は二人でキッチンに立った。 亮は料理が得意ではない。むしろ壊滅的に不器用だ。「いてっ……玉ねぎって、なんでこんなに刺すんだよ……」 涙目になりながら玉ねぎを切る亮を見て、楓は声をあげて笑った。 その笑い声につられ、亮も照れくさそうに笑う。 そんな日常の端々に、「一緒に生きる」という感覚が宿っていた。 気づけば部屋には亮の気配が増えていた。 ソファの端に投げかけられたジャケット。 洗面台には並んだ歯ブラシ。 冷蔵庫には亮の好きなビール。 ベッドの隅には彼が忘れていったスウェット。 それらが、自然で、温かくて、当たり前になっていった。 ――しかし。 そんな幸福に、ほんのわずかな影が落ち始める。 亮には一つだけ、楓を悩ませる性質があった。 嫉妬深さ。「今日の当直、誰と? 男?」「医師の八割は男よ」「……あんまり残ってほしくないんだけど」「無理よ。仕事なんだから仕方ないでしょ」「楓には、無理してほしくない」 その声音は甘く、同時に重かった。 “守りたい”と“独占したい”がないまぜになった、複雑な甘さ。 最初はそれも愛情の一部だと思えた。 だが――その嫉妬は、徐々に熱を帯びていく。 楓が男性医師とペアを組むと知れば、亮は自分が休みの日には病院に来るようになった。 遠くのロビーから、楓が帰るのをじっと見張るように。 最初にそれに気づいたとき、楓は背筋がひやりとした。 仕事を終えてロッカー室から出た瞬間、見覚えのある後ろ姿がエントランス近くに見えた。 亮がスマートフォンをいじるふりをして、医局側をちらちらと覗いている。(どうして……?
初デートの場所を決めたのは、亮だった。 楓が当直明けであることを知ると、彼は電話の向こうで一瞬だけ言葉を切り、何かを考えるように黙り込んだ。そして次の瞬間、まるで当然の選択肢であるかのように、穏やかな声で言った。 「重たい料理は、きっと身体に負担になりますよね」 その一言に、楓は少し驚いた。 当直明けの疲労を、こうして真正面から気にかけられた経験は、ほとんどなかったからだ。 その言葉通り、彼が予約していたのは、駅から少し離れた路地裏にある、こじんまりとしたイタリアンレストランだった。 人通りの多い通りを一本外れた場所にあり、知らなければ通り過ぎてしまいそうな控えめな佇まい。それでも、看板の文字は丁寧に磨かれ、入口の扉からは、ほのかにオリーブオイルと焼きたてのパンの香りが漂ってくる。 店内に一歩足を踏み入れると、木の香りと温かな灯りに包まれた空間が広がっていた。 昼下がりの柔らかな光が窓辺から差し込み、テーブルの上で淡く揺れている。 騒がしさとは無縁で、まるで時間が少しだけゆっくり流れているような、不思議な静けさがあった。 (……いいお店) 楓は内心そう思いながら席に着いた。 白衣を脱いだあとも、身体の奥に残っていた当直明け特有の重だるさが、店の空気に溶けていくのを、確かに感じていた。「こういうときはね、重いものより軽いもののほうがいいんですよ」 亮はそう言いながら、自然な動作で椅子を引き、メニューを開いた。 その仕草に無理はなく、まるで何度もこの店を訪れているかのような落ち着きがあった。 楓は、その様子を横目で見ながら、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じていた。 しばらくして運ばれてきたのは、湯気の立つミネストローネだった。 亮はそれを受け取ると、まるで当たり前のように、楓の前にそっと置く。 白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、トマトと野菜の優しい香りが、疲れ切った身体にすっと染み込んでくる。 視覚と嗅覚だけで、どこかほっとしてしまうのは、きっと空腹のせいだけではない。「医者相手に栄養管理とか……」 楓は思わず笑いながら言ったが、スプーンを持つ手には、ほんの少し照れが混じっていた。 “気にかけられている”という感覚が、想像以上に心地よく、胸の奥に残っていた緊張をゆっくりと解かせてい
その頃の私は、幸せだった。 少なくとも、そう信じて疑わなかった。 ――あの匂いに、気づくまでは。 その優しさは、私の人生を奪うためのものだった。そろそろ冬の気配が近づいてきたと感じさせる秋の終わり。 空は一日中曇りがちで、雲を通した薄い光が、開業医クリニックの廊下を鈍く照らしていた。 白一色の壁、やや古さを感じさせる蛍光灯の明かり、遠くで微かに響くカルテカートの車輪の音――。 忙しさに追われることもなく、かといって完全な静寂でもない、昼下がり特有の落ち着いた時間帯だった。 渡辺楓は、診察を終えた患者のカルテを机の上に置き、最後の確認をしてから閉じようとした。 だが、その指がふと止まる。 ほんの一瞬。理由も分からないまま、胸の奥にかすかな違和感が走った。 心の中で、ある人物の姿が浮かび上がる。 思い出すつもりなどなかったのに、まるで呼び水のように、記憶は勝手に形を成していく。 彼の笑顔。 少し低めの声。 何気なく触れた手の温度。 ――亮。 名前を心の中で呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。 二十八歳の頃から、たった二年間。 それほど長い時間ではないはずなのに、思い出の輪郭は色褪せるどころか、今も柔らかな光を放ちながら、楓の心を包み込んでいた。 「外科医になるはずだったんだよね、私……」 ぽつりとこぼれた独り言は、診察室の静かな空気に溶け込み、壁に吸い込まれて消えた。 外科研修を終えたあの頃、楓の未来はもっと直線的で、迷いのないものだったはずだ。 進むべき道は明確で、努力すれば必ず辿り着けると信じて疑わなかった。 決めたはずの方向。 描いていた将来の図。 それらすべてが、“ある出会い”によって、音を立てて崩れていった。 ――二年前。六月。 湿気を帯びた風が、病院の大きな窓を叩いていた。 梅雨特有の重たい空気が、建物の中まで入り込んでくるような夕方だった。 当直明けで、頭の奥に軽い疲労を抱えながら、緊急外来でカルテを整理していた楓の耳に、勢いよく扉が押し開けられる音が響いた。「すみません! あの、足を……!」 少し切羽詰まった声とともに現れたのは、白いシャツの胸元まで汗を滲ませた男だった。 整った顔立ちをしているのに、どこか不器用で